■出生について
私は関東のとある病院にてこの世に生を受けました。
家族構成は父、母、私、妹の4人家族。
父は建築業、母は精神疾患やアルコール中毒を患っていましたが建築業として仕事を転々としていたようです。
私は3歳までは家族で暮らしていたようですが、近所に母の知人(以下:義理の祖母)である方が住んでおり面倒を見ていただいてました。
母が子供嫌いなのもあり、また父が事業を始めたことで引っ越すことになるのですが、
私は母が嫌いで、妹は引越し先の土が合わず喘息発作を起こすようになり次第に義理の祖母
に預けられるようになりました。
■幼少期
幼少期の私は、正義感が強く悪いことは許せないタイプの性格をしていました。
義理の祖母と暮らしているというのもあり、よくいじめられたのを覚えています。
今考えると自分にも非があるなと思うこともあるのですが、物心が付き始めて間もないので当初はなぜ自分がいじめられるかを理解できませんでした。
■小学生時代
相変わらずいじめは続いていましたが、特に学校を休むこともなくそれなりに充実した日々を過ごしていました。
サッカークラブに所属し、野球よりサッカー派になった頃はこの時からでした(笑
小学4年生のときに恩師に出会いました。
もともと絵を描いたりものを作るのが好きだったのですが、当時の担任の先生がその個性を見抜き色々な技術を教えて下さいました。
そのおかげもあって図画工作の成績はとても良かった記憶があります。
イラストコンクールにも何度も受賞させて頂き、今思えば今後の人生の大きな分岐点を迎えた気がします。
また、いじめに関しても一生懸命考えてくださり改善に至ることはなかったですが、心の支えとなりました。
さらには「卒業にしても私は君の先生だから」という言葉にとても励まされました。
■中学生時代
入学当初はクラスメイトとも仲良くやれていましたが、クラスのリーダー格に歯向かったせいでまたもやいじめの対象に(笑
思春期を迎えていたので、やり返したり抵抗はしたのですがやり返された人間が泣きながら別の人間を連れてきてしまう負の連鎖に陥ってしまいました。
また、先生も対処する気がないという状態で、この頃から絵も描かなくなりました。
次第に不登校となりネットゲームにハマるニート生活をするようになりました(笑
累計すると中学校は1年と半年ぐらいしか通ってませんでした。
卒業後は就職することを考えていましたが義理の祖母の希望もあり高校へ進学しました。
■高校生時代
中学校をまともに通ってなかったため、個人塾に通いながら勉学に励みました。
学校や個人塾の教えが良かったため、ありがたいことに成績は上位を保てていました。このことに自信をつけ義理の祖母を幸せにするため頑張って勉強していい会社に就職することを考えていました。
そんな中、母が倒れ植物状態となってしまいました。
そういったことからストレスを抱えるようになり「パニック障害」を併発するようになります。
周りからの視線「両親が育ててないからcacaoは無能なのだ」という視線にも耐えられなくなっていたのかもしれません。※それが嫌で無理をして成績上位を保っていました
不幸は続くもので小学生からの幼馴染を交通事故でなくすという経験から、このまま頑張っても死んでしまっては意味がない。と感じるようになりました。
精神が疲弊していく中でも義理の祖母は私を支えてくれ、また友人たちの支えもあり不登校になるようなこともなく無事卒業することができると思った矢先…。
妹が妊娠しました。
もちろん私の家計は裕福ではなく、義理の祖母が一生懸命やりくりをしている状態でした。
私は家計を助けるため、就職を決意しましたが、周囲の説得と応援もあり進学することとなりました。
とはいえすぐさま進学なんてできなかったので一年間浪人をしバイトをすることで資金を賄うことにしました。※バイト先では店長にめちゃくちゃ浪人してることを馬鹿にされあだ名として「一郎」(一浪)とかけてると大人の汚さはここで学んだ気がします。
■専門学校時代
一年バイトをし、比較的通学しやすい情報学科がある学校に入学をしました。
この頃からイラストレーターとしての夢を抱く用になり、資格勉強の傍らペンタブを購入したり模写をして一生懸命勉強していました。
これが悲劇を産むことになるとも知らず…。
特定されるのは避けたいのでぼかしながらのお話になりますが、海外短期留学なるものが存在する学校で例にもれず私も参加しました。
帰国後も資格勉強に精を出し続けました。
この頃、義理の祖母が体調を崩していましたが病院に行くように勧めたりしかできず、あまりかまってあげられてない状況でした。
試験当日の朝。私は違和感を感じ目を覚ましました。
そこには変わり果てた義理の祖母の姿がありました。
すぐに救急車を呼び泣きながら人工呼吸や心臓マッサージを行いましたが、時既に遅し。
周囲のすすめもあり、病院に付き添ってから私は資格試験を受験しました。
結果は合格でした。ですが私の心は晴れず幸せにすると誓った義理の祖母を失ったことで「燃え尽き症候群」となってしまいました。
■正社員時代
私は中小企業に就職しました。就職した理由はプログラミングはもちろん、
イラストでも活躍できるという言葉に惹かれたからです。
もちろんそんな事あるわけがなく、プログラマといて技能を磨いていきました。
また、3Dモデリングやデザインなど私のやりたいことからズレている研修をうけることに…。
感謝はしていますが給料が見合っていなかったこと、イラストレーターの夢を諦められなかったこともあり3年目に退職をいたしました。
仕事の仕方を教えてもらったこととても感謝しておりますし、今でも交流がある会社さんですので不満というわけではなく自信に合わなかったのだと思います。
■イラストレーター時代
好きなことを仕事にでき最初はとても幸せでした。
ですが、周囲との比較をしてしまったり、人間関係でのトラブルやあることないこと書かれるようになりショックのあまり精神をやんでしまいました。アンチコメントも多かったように感じます。
このままではいけないと思っていた矢先、情報処理のお仕事のお話をいただき兼業でお仕事をすることを決めました。
■現在
今までの無理が祟り精神的に病んでしまい、友達や親戚・家族とも疎遠となりました。ただ職場環境や自分のペースでお仕事をさせていただけており、今後イラストレーターとしてもITエンジニアとしてももっと高みを目指していきたいと日々努力をしております。